あくまでも私なりの「教育論」その1

こんにちは、塾長の茂谷です。

私は教育系の大学に行ったわけではないですが、教育に携わる仕事をするようになりました。

教えることを学んだ訳ではありませんが、思い返せば、小さな時から友達に宿題を教えたり、

工作や体育の運動のコツなんかをよく教えていました。特に出来が良いからと自慢だった訳ではなく、

友達とのコミュニケーションのつもりだったと思います。

長男だったので、妹や弟の面倒もみないといけないこともあったでしょう。

                (そこに関しては、あまり積極的ではなかったかも・・・苦笑)

大学生の時には、家庭教師や卓球を指導するアルバイトをしていたので、教えるときが切れたことがないです。

結局、私の「教える歴」は、人生と同じ、みたいなものです。

皆さんも「コミュニケーションは教えること、教わること」だとしたら、ほとんどの人間が先に生まれて

「先生」にならざるを得ないと思いませんか?

私は、職業上、いろんな呼び方をされます。

「モタニ先生!」・・・ほとんどの生徒さん

「モタニコーチ!」・・・余りいませんが、たまにいます。ドラマや映画の世界?

「モタニ監督!」・・・よそのチームの先生や子供達に使われます。

「モタニ指導者、モタニ指導員」・・・肩書と言うか、対外的に

「モタニ社長!」・・・営業として...ウ~ン、気を付けよう!!

「モタニティーチャー!」・・・英語が苦手な私としては、あこがれる!しかし絶対に困る!!

「ボス!」・・・英語だけど、ちょっと、呼ばれてみたい。

「生徒のお父さんみたい」・・・身に覚えが…あるわけない!!

「その子のおじいちゃんみたい!」・・・誰がジジーじゃ!ていうか誰がおばあちゃん?

「もっちゃん!」・・・「・・・」

最後以外は、いずれも上(責任上)の立場であることには変わりがないですが、

関係性がそれぞれ違うような気がします。

ちょっとしたことがパワハラやモラハラに見られてしまう現在では、

その関係性の強さは、教育、指導のさじ加減を決める要素です。

時代が進むにつれてあいさつしない子供が増えてきましたね。

私は、私に対しての挨拶は強要しません。ただ、私に対しての関係性の強さを見る指標にはします。

挨拶は、コミュニケーション能力ですし、勝負では、挨拶から勝負は始まっているものです。

私は、挨拶の意味は教えますが、その後その子がどう行動するのかはその子次第です。

こちらから挨拶をするのも教育、子供から挨拶をするのを待つのも教育でしょう。

その人間が指導者をどう意識しているかは、教育的効果に違いが出てきます。

万物は、見る角度や眼鏡によって、時間によって違って見えるのは当たり前でしょう。

テストの為に、知識を詰め込ませることだけでは教育にならないと思います。

「知識を使って、何のために、どのように行動し、どんな結果を得て、次にどう活かすのか」

を促さないといけないのが、教育だと思います。

砂糖や塩を使ってどのように調理するか、どんな料理になるかは、その素材次第です。

素材の良い悪いでなく、その素材をどう活かすのかが料理です。

お母さん(お父さんでも)が料理ができるとはそういうことだと思います。

その子の素材力(ベクトル)を把握して、どこに向かってどのように導いてあげるかマネージメント

できないと意味がない。ベクトル向きの違うエネルギーは、エントロピーを増大させるだけです。

違うベクトル方向に負荷をかけて、超回復をねらっていても、負荷をかけすぎたら目に見えるケガを

する。たくさんの経験からそのようなさじ加減ができるということが、教育力でしょう。

知識を得ることは、できるということではない。

知識、情報、データを得ているだけでは、中毒状態におちいるだけです。

知識は、砂糖や塩みたいな調味料みたいなもので、それだけ食べ続けると体がマヒしてくる。

知識を得ただけで自慢になり、優越感に浸っていると、知識中毒になっていく。

知識をさらけ出して自分が有利になろうとしているだけで、自分の深層心理に気づかない。

これは認知症の一部だと思います。認知症は、過去のことを忘れるというより、

常に過去の情報と新しい情報を整理し学習し直す(書き換える)ことをしないから、

過去と今と未来が繋がらない、認知できないのだと、私は考えます。

「認知症に、今なりました。」みたいな境界線はない。

生まれてすでに認知症の素質も少しずつ育ってしまうのだと思います。

中毒症状の一番危険なところは、「正しく分析して先を考えない、予想できない」ところです。

指導者は、そのように無意識に(意識できていると勘違いしている人が多い)中毒になっていることを

気づかせてあげることも仕事の一つです。

結局は、その子への、その国の教育は、それぞれが向かう未来によって変えるべきです。

教育なんて一言で言ってしまえば、「教育的エネルギーのコントロール」です。

その子の、その人間の、その国の未来を皆で考えて行動することが、教育でしょう。

国に教育を任せているだけではいけないし、これまでの社会の教育体制につかりきっていてはいけない。

知識量を計るだけの評価方法を用いる教育は、とっくに時代に合わなくなっていると思います。

この情報化社会は、

情報をどのように分析して、情報をどのように利用して、行動し、結果を得て、次に活かす能力が必要

です。情報に、データに、振り回されない力がいるのです。

目に見える評価の方が決めやすいかもしれませんが、評価方法を考え直さないといけないでしょう。

そろそろ、日本の行く末を、世界の行く末を、子供も大人も真剣に考え、

「個のため=皆のため」なるような、無尽蔵なエントロピー増大を招かない道を進まなければならない

と思うのですが・・・

次の機会に、「この世はエントロピー増大法則が成り立っている。」ことから見る教育論を話してみた

いと思います。

エントロピーの意味をわかりやすく解説!統計力学と情報学の考え ...

ん~、それにしても、見えないものを言葉で説明することは本当に難しいです。

4次元空間くらいまでならイメージを伝えられるのでしょうが、言語力って大切ですね。

50歳を過ぎても勉強し続けないといけません。

ちなみに 日本の教育基本法 第1条には、

第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

とあります。第1条 (教育の目的):文部科学省 (mext.go.jp)